1.The Omen
狂女の有様だった。
いつも美しく纏めていた黒髪は乱れ、女が動くごとに蛇のようにざわめく。
女は思いつくあらゆる場所を駆けずり回っている。 出会う人全てに行方を尋ねる。
しかし、娘の姿は無い。
喉を嗄らして名を叫んでも、呼び声に答えて母の胸に飛び込んでくる幼子は、どこにも。
女の形相に道行く町の人は何事かと呆れ、或いは哀れみを浮かべ。
ある人が言った。
小さな女の子が“領主様”の屋敷を覗こうとしていた。
女は、自分の心臓に杭が打たれたのを知った。
彼女の夫は三日前、×××に喰われて死んだ。
月を三晩数えても夫が棺から起き上がることはなく、そのまま土の下に埋められた。
娘は、まだ赤ん坊も同然なのだ。
父親がどうなったのか分からない。 人は死ぬのだということも知らない。
待っても帰らぬ父親の行方を尋ねるので、彼女は切なさに、“領主様”の御用だと答えてしまった。
その娘の姿がない。
(×××のことなど娘は知らない。)
(領主様の屋敷には絶対に近付いちゃいけないと何度も教えた。)
(けれど、もしも、父親を返してもらいに行ったのだとしたら。)
女は、立っていられなかった。
前が見えない。 足がもう動かない。
娘はきっと戻らない。
小さなあの子も、夫と同じように×××に喰われて死ぬ。
女は嗚咽した。
地面に崩れ落ちたそれは、鬼女の慟哭だった。
四辻の真ん中での異様な見世物を、人々は遠巻きに眺めている。
声をひそめて(いるつもりで)、ついに子供まで犠牲になった、かわいそうにと、屠殺場の豚のように憐れっぽく。
(去年までは四年に一度、秋の収穫祭の晩に一人だけ。)
(この町の“領主様”は大層御高齢で、他所の×××ほど多くは召し上がらない。)
(選りすぐりの乙女を一人、差し出せば、町はあとの四年をつつがなく過ごせた。)
(なのに、この秋はもう七人。)
(皆、無惨な死体だった。)
静々と墓場へ向かう葬列を、何度見送っただろうかと数えはしても、
罪などあるはずもない彼等は、ただ首を竦め、災厄が己に降りかからないことを祈るだけ。
“いつか全員喰い殺される”
そう感じたとして口にしないのは、声に表す恐怖か、飼い馴らされた家畜の鈍か。
夫を殺された女は、娘を連れて町を出るつもりでいた。
教会の鐘が時を告げる。
冷たく空へと響き渡る音色に、人々は大地に落ちる影の長さを知る。
日暮れが近い。
彼等のものではない時間が迫っている。
善良な人々は家路へと急ぎ、女などそこにいなかったように、離れていった。
彼等にも家族がある。
女は少し、狂っていた。
その頃、一台の奇妙な馬車が町の門を潜った。
大きい。 閉じた箱型をした車体の長さはこのあたりの荷馬車の倍を超すだろう。
扉のような構造が後ろにあるだけで窓どころか小さな隙間一つ見当たらず、装甲が完全に全体を覆い尽くしている。
その一切が、漆黒なのだ。
駒は六頭立て、逞しい戦馬はこれも星闇のような艶のある黒毛ばかり。
馬車の堅牢な造りは重装戦車という言葉が相応しい偉容だが、その佇まいは優雅でもある。
町の人は目を丸くして道を譲った。
旅人や隊商なら珍しくない。 町は東西を結ぶ交易路にあり、行き交う人や物がこの町を宿にすることは多い。
しかし、赤く潰れていく太陽の残滓を浴びる“それ”は、彼等がこれまで目にしたことのないものだった。
小さな漣が人から人へ。 囁きは好奇と不安を孕んでいる。
(何の馬車だ? どこから来た?)
(あの頑丈そうな中に何を積んでるんだ。 窓がない、人を乗せるための馬車じゃない)
(荷はどこかの金持ちのお宝で、)
(……の、秘密の……)
(違う、窓が無いのは、あれが、)
ゆるやかな人波を音もなく裂いて進む馬車の、黒鋼の蹄が止まった。
ふっと人々の囁きが途絶える。
そこに女が倒れていた。
女は、往来に崩れ伏した自分の姿を知らなかった。
その身体でいったい何の歩みを遮ったのかも。
しかし、誰かに助け起こされる気配にうっすら目を明けると、霞む視界に男の顔。
悲しい女には、それが夫に思えた。
涸れた涙が溢れた。
鬼女の涙はついに赤色。
男が何かを言っている。
それが彼女を案じる言葉だとわかっていても、女は聞こえなかった。 答えられなかった。
戦慄く指で縋り付き、ただ、あの子を助けて、と繰り返し繰り返し熱病のように。
錯乱したその指を包みこむ夫の手は、優しかった。
「わかった。 あんたの娘を見つけに行く」
女の意識はそこでぷつりと切れた。
彼女の夫は流れ者だった。
“狩人”として町に流れ着き、そのまま居ついて彼女と結婚した。
このあたりは山も森も穏やかで、獣を撃つ以外に銃はいらず、夫は細工物を仕事にした。
じきに娘が産まれた。
幸せだった。
黒い馬車の御者をし、倒れていた彼女を介抱した男は、実際のところ彼女の夫と全く似ていない。
ただ夫と同じく教会十字を、“狩人”である証を首から下げていた。
それだけだ。
彼女の心が疲弊し切っていなければ、男の右手に翠色した不思議な指輪があるのに気付いただろうし、
何より、男が手綱を取る黒い馬車に目を留めないわけがない。
その積荷を知っていれば、彼女は決して、娘を頼みはしなかった。
教会が最後の鐘を鳴らす。
人間の時間の終わりを告げる。
女を町の人に預け、男は馬車の後ろに回る。
扉に施された厳重な封印は、男が運んできたものが恐ろしい猛獣であるかのようだった。
「ちょっと兄ちゃん、あんたその中身いったい何なんだ」
「危ないものは困るよ、教会の許可を取ってくれ」
「そんなことよりあんた、“狩人”だろ。 教会が“狩人”を呼んだのか? まさかこの町の……を?」
「静かに」
不安がる声の方を振り向いた男は、人差し指を立てて口元にやり、
「騒いだ奴から、喉を喰い千切られる」
人々がぎょっとした次の瞬間、男は人好きのする笑みを浮かべ「冗談だよ」と付け足し、
「生きてる人間は食わない。 坊ちゃん育ちのバカは好き嫌いが激しいんだ。
おまけに陰険で偏屈で性格ネジ曲がってて、自分に都合の悪いことは絶対ぇ言わないくせに、
俺の失敗は過ぎたことをねちねちいつまでも言うけれど、まあ、大概、無害」
冗談にしては妙に具体的な文句を軽やかな口調で男が述べ立てる間に、扉が開く。
重厚なそれは存外滑らかに動き、人々の目は扉の奥へ吸い寄せられる。
しかし、何も見えなかった。
一切の闇だ。
「俺はただの通りすがりで、あんた等は何も見てない、何も知らない。
誰に聞かれてもそう答えればいい。 朝日が昇る前に片がつく」
男が闇の中に足を踏み入れる。
奥にまだ扉が存在するらしい。
人々が辛うじて分かったのはそれぐらいで、尋常でないのはその“黒”だ。
馬車は外も内も執拗なまでにそれ以外の色彩を欠いている。
否、黒は色ではない。 色彩を生み出す光そのものが存在しない。
それほどまでに光を厭うのは何者か。
「たまには散歩させないと」
どこか笑みを含んだ声。
久遠の闇は世界に生じた亀裂のようで、深さも分からず、答える者も無い。
そこにはただ、棺が眠る。
2.ハル・ジョーダンはこの世界で“怪物”専門の狩人をしている。
その過去、割愛。
養っているのは吸血鬼。
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