6.明るい家族計画 布告編
たとえば、長年音信不通だった放蕩息子が婚約者をつかまえて帰ってきました、ということになれば、まあ吉事だろう。
放蕩といっても、彼が家を飛び出したのは事故死した父親と同じパイロットの道を選ぶためで、
今は地球の大気圏すら飛び出して宇宙を駆け巡っているのだから、母親や兄弟は、
もうどうにでも好きなように。 と、思ったかもしれない。
祝福の心は寛容だ。
しかし、これがもしも、一家の大黒柱が突然結婚する、という話になると、
それを受け入れる家族は、もう少し複雑かもしれない。
ウェイン家の場合、それはたまさか息子達のうちの三人がそろった昼食の席だった。
父親は出社しない日の常で昼近くにようやくベッドから起き、どうにかシャワーを浴びて食堂に現れた姿は、
黒髪は濡れたまま、バスローブから着替えもせず、席についた途端うたた寝を始める。
眉を顰めるのはアルフレッドぐらいなもので、子供達は、これこそが自分達の知る父親の姿だと思っている。
が。
その父親が、眠たそうに両目を瞑ったまま、寝起きのぼそぼそした声で、
「結婚しようと思う」
と呟いた。
無精髭の浮いたその横顔を、仔犬の寝顔を見守るような心地で眺めていた長男は、
何か聞こえたかも、と思いはしたが、それが何かは考えない。
人間、都合の悪いことは耳にいれないように出来ている。
「何言ってるの。 結婚って結婚だよ?」
と、答えたのは三男のティム。
失笑すらどこか少女のように可憐なのはもはや才能だろう。
「郊外に白い家を買って行ってきますとお帰りなさいのキスに子供は男の子と女の子が一人ずつ、
緑の芝生の上は仔犬が走り回ってなきゃいけない、“あの”結婚?」
しかし、“あの”には不信と懸念の響きが込められていた。
父親がジョークの類を好まないことを彼等は充分に承知している。
「ふざけるなドレイク! そんなステレオタイプの“幸せな家庭”、父さんに出来るはずないだろッ」
椅子を蹴倒して立ち上がったのはダミアン。
紆余曲折の出生と怒涛の反抗期を経、今が一番甘えたがりの末っ子は、
自分の父親は一般的な家庭人として無能である、と断言していたが、それは彼らの共通認識だった。
「俺は反対だ」
両腕を胸の前で組み、末弟は立場を明確にする。
ティムはただ、起きてるのか眠っているのか分からない父親に、怜悧な眼差しを注いでいた。
「本気なの?」
伏せられていた睫毛が、淡い影を揺らして持ち上がる。
藍の玲瓏がティムを映す。
「俺は嫌だ!」
「お子様は黙って。ブルース、相手は誰?」
「聞きたくないッ」
言葉と同時に小さな身体が父親に掴みかかる。
ほとんど飛び掛かる勢いで、胸倉を引き寄せ自分に視線を向けさせる。
「愛人なら好きなだけ囲えばいい、誰とセックスしたって構わない。
でも新しいママは要らない。 母親なんて“タリア”一人で充分だ」
父親と同じ色の瞳は、父親に似ず激情の揺らめき。
それは子供のひたむきさであり、不安であり、
自身にもまだ分からない、炎のような情動だった。
「俺は、父さんがいればいい」
ちらりと弟の表情を一瞥したティムは、観察者の眼差し。
ブルースの方に目をやれば、思慮と狂気の人は息子を静かに見据えている。
哀しいとも愛しいともつかない顔で、けれど、子供の小さな頭を撫でる手に、深い慈しみが。
「……私はタリアのしたことを、決して許さない。
そして、彼女も私のことを決して許さないだろう。
そのことでお前を傷付けた。
本当に済まなかったと思っている」
一瞬、ダミアンは顔をくしゃりとさせた。
こらえようとして口許をぎゅっと閉じ、わざと胸をそらす。
泣いちゃえよブサイク。
と、ティムは思う。
父親の腕の中にすっぽり包まれた末っ子を、すこし、羨ましいとも。
ブルースが言う。
「私がお前の母親以外の女性を娶ることはない」
その言葉に、ティムは目をぱちんとさせた。
「待って、じゃあ相手は男?」
「駄目か」
「ダメというか感情の話」
ティムは、何を考えているのか分からない父親の頭の中を覗こうとするように、
そして、強いてある方向には目を向けないように、ブルースの顔をじっと見る。
「わかるよね、ちょっとビックリしちゃうこと」
「分かる」
「で? 相手は誰。 僕の知ってる人?」
「知っている」
「へえ、見当つかないな」
ティムは軽く笑ってみせた。
頬の辺りが緊張しているのが自分で分かる。
それは眼前の人のせいであり、先程からずっと沈黙している彼のためでもあるが。
「ハロルド・ジョーダン」
ん? とティムは小首を傾げた。
「誰」
「誰!」
ぴょこっと顔を上げたダミアンも眉根を寄せる。
が、ブルースは何を付け加えることもせず、ティムを見ている。
「ドレイク、さっさと思い出せ」
「五月蝿いよ。 あ、」
「誰だ!」
「だからうるさいって。 ねえブルース、これ何の偶然? 同じ名前の人がグリーンランタンにいるよね」
「ヒゲでブロンドのおっさんか」
「それアロー。 ランタンって言ってるだろ。 緑でチカチカしていっぱいいる方」
「宇宙で3600×2程度しかいないくせに不必要なほど地球に多くいるあいつらか」
「でも、ハル・ジョーダン?」
「どれだ?」
その時、ガタンっと椅子を鳴らしてディックが立ち上がった。
「ブルース、話がある」
二人無言でどこかに消えるのを見送り、ぼそりとダミアンは呟く。
「修羅場だな」
「言い方がなんかゲス」
7.明るい家族計画 紛糾編
ディック・グレイソンには、出会ってから現在に至るまでの人生を捧げた、男がいる。
その人は両親を亡くした彼の後見人であり、師であり、相棒だった。
年の離れた兄弟のようで、時に衝突し、時に迷うことはあっても、
誰よりも慕っていた。
が。
「いつから」
そう切り出す声は硬く尖っている。
二人は屋敷を出、庭園の一隅で対峙していた。
そよ風が柳を揺らす木陰、池の睡蓮は白く清楚な花弁を開き、
ディックは義父の手首を強く掴んで離さない。
「いつから、二人は、そういう関係?」
紋切型の台詞を、まるで箱入り娘を突然奪われる父親のような動揺を、彼が喜劇だと思わないわけはないのだ。
そして、喜劇の滑稽さは登場人物が至極真剣であることに因る。
ブルースは、つっと目を逸らすと掴まれた手をさりげなく逃がそうとし、
ディックはそれを許さない。
「……お前は知っていると思っていた」
「そう? 全・然・知らなかった」
難しく眉を顰め、唇を引き結ぶ人の沈黙が、今まで目にしたことのない類の“羞恥”であると気付き、
ディックは自分が独り、燎原に立たされていることを知る。
ブルースが重い口を開く。
「ジェイソンが家にいた頃に、」
つまり、ディックがウェイン邸を離れ、ナイトウィングを名乗り始めた頃、
「ほんの数回」
僅かも無い言葉に、プレイボーイの仮面を外したところで義父が誰かとセックスしていたという事実を、
望みもしない生々しさで意識せずにいられなかった。
行為自体は、不思議でない。
ブルースと本当に個人的に関係を持っていた女性達を、ディックは知っている。
しかし、彼は表に出す以上の狼狽を、あえて自分で掻き立てるように、
「それから?」
「……あれが……グリーンランタンに復帰して……」
観念したように言葉を切り、ブルースは溜め息をつく。
「隠していたつもりはない」
「言わなかっただけだよね」
「言う必要がなかった。 言うほどの、特別何かのある関係でなかった」
「それが、どうして、結婚?」
「……成り行きだな」
その言葉にディックはついに叫んだ。
「ダメ! そんなの絶対反対!!」
「駄目か」
「当然だろ!? 俺の大事な人をいきなりそんなワケわかんない理由で嫁に行かせられないッ!」
「落ち着きなさい。 嫁には行かない。 籍を入れるだけだ」
「なんで!」
「そうだな、それによって私があれの資産管理を行うことが公的に認められる。
尤も、あの男に資産などないが。
要は、あれに任せても何ら解決しない地球上の、法的・経済的諸事項を、私が処理出来ることになる。
その効率は一目瞭然だろう」
「目的は効率?! それ絶対おかしいよっ」
「成年後見のようなものだと考えれば良い。 そして、後見制度の場合は何故それが必要であるのか
裁判所に認めさせなければならないが、結婚の場合は紙切れ一枚で済む。
頻繁に銀河系外での任務があるので保険の手続きが取れない、とは私も説明し難いからな」
「待って! ちょっと待って!」
「何だ」
「そういう結婚なら、余計に、反対です」
「法律上は問題ないはずだが」
「俺が問題なのッ!」
ディックはずっと離さなかったブルースの左手を、そっと掴み直す。
そして流れるような動作でその場に膝をつき、薬指に恭しく、口づけした。
「……ディック」
「愛してるよ、ブルース。
誓って言うけれど、宇宙がどんなに広くても、俺以上にあなたを愛している人間はいない。
あなたのことが誰より大事なんだ」
常と変わらない、情動の薄い藍色の双眸は、黙ってディックを見下ろし、
その瞳を上目に迎え撃つ眼差しの青い炎は十年を超す思慕。
「いいかげん、俺がいつもどれだけ心配してるのか、わかってよ。
無茶ばっかりして、人の言うことなんかちっとも聞かなくて、何でも自分一人で決めて、今度は結婚?
資本提携みたいに簡単に言ってくれるけど、どうせ婚約指輪もないんだろ!
まともな指輪も用意できない男なんて許さないからな!」
「随分、古風なことを言う」
「誰かの教育かな。 守るべき規範にうるさくて融通がきかない」
ブルースが微かに唇を綻ばせる。
そして何か言おうとするのを、ディックは首を横に振り、
「あなたには、幸せになってほしいんだ。 あなたを幸せにしたいんです。
その心底めんどくさいとこも、ややこしいとこも、全部丸ごと俺が引き受ける。
だから、俺を選んで」
青年の真摯な情熱と、その全てを捧げられた一人の男。
世界はあくまで長閑、水面を閃き透きとおる蜻蛉の翅。
ブルースは小首を傾げる。
「……私は“めんどくさい”か……」
「自覚あるでしょ」
「ある」
その厳しさが、時に極北の暗夜を吹き荒ぶ烈風のようである人の、
微笑の優しさに、その左手にディックは頬をすりよせる。
指に甲に、何度も唇を重ねる。
離したくなかった、この人を。
「……お前にそんな申し出をされるとは、予想していなかった」
「そう? 名探偵失格だね」
「全く、子供の成長は大人よりも遥かに速い」
「あなたは近くのものだけは見えないから。 俺はとっくに成人済みです」
「それでも、まだ理解していないことがある」
「わりと分かってるつもりだけど」
答えながらディックは目を瞑る。
頭を撫でてくれる人の手は、少年の日のまま。
この人の傍らにあることが当たり前だったあの頃。
子供のままでいられないと気付かなければ、あの時間はいつまでも続いたのだろうか。
「お前が家を出た時、心配はしたが、仕方のないことだと思った。
私は我を張るばかりで、お前の裁量に任せるということを知らなかった。
お前には十分な技量が既に備わっていたのに」
「あれは反抗期だよね、今思うと。 だいぶ遅らせたつもりだけど」
「……私は、お前が私の傍からいなくなっても、何も変わらないだろうと思っていた。
最初に“ロビン”はいなかった。 最初は私一人だけだった。 ゼロへと戻ることに問題はないはずだった。
そうではないと気付いて、私は初めて、驚いた」
「あなたは酷い人だ」
「承知していると思ったが」
「まあね」
笑み零れる二人、誰も知らない秘密を語り合うように。
眼差しも、言葉も、囁き交わす声も、二人だけの。
「私の世界を変えたのはお前だよ、ディック。
お前と出会ってから、私はずっと、幸せだった」
愛しい人の手の中に頬を包まれ、額に接吻を受ける。
クリムトの恍惚は、けれども切なく、欺瞞すらないその言葉の意味を、知っている。
誰よりも心を捧げた人だから。
8.法的な問題
「だいたい、お前はもう私の息子になっている。
結婚しようとすれば一度それを解消する、つまり絶縁しなければならないが」
「えっ、それはちょっと」
「私は耐えられない」
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