何故、と聞かれれば
話は5年前までさかのぼる。
彼等が“ヒーロー”として公に認められ、その後も相次ぐ地球侵略を阻止していった結果、
ジャスティスリーグへの称賛は、すぐさま世界的な熱狂の域に達した。
彼等こそ現代の聖人。
その手に宿る奇跡と、清廉な意志で正義を行うのだと。
人々は希望を求めていた。
今や地球は人類の安らかな揺籃などではなく、
宇宙には、地球人を易々と駆逐する文明が存在し、
それに見合う“悪意”も潜んでいるという事実に、人々は怯えた。
しかし、この地球という小さな惑星は、他に類を見ない多様性に富む反面、
そこに内包する非合理により、統一的な意志決定すら著しく困難なのだ。
(所謂政治というものに倦むことなど珍しくもない人類史。)
ジャスティスリーグは、混乱と恐慌の最中、人々の前に降り立った。
その輝かしさを、人は仰ぐ。
盲者が光を乞うような羨望と、
一片の、拭い難い恐怖と。
しかし、人々のそんな心理など、ハルにはまるで関心事でなく。
彼に言わせれば、ジャスティスリーグというものは
偶然同じ顔ぶれが一、二度居合わせただけの話であって、
それをどうして友情だ同志だなどと一括りにお仲間扱いしたがるのか、まず分からない。
だいたい、ハルはグリーンランタンだ。
無辺無窮の宇宙をたった3600のセクターに分割した一つを、
そこに含まれる地球ごと任されているのだ。
ハルは、誰の手も必要ない。
連中と群れる気もない。
そして
夾竹桃と百日紅の木陰から
したたたた と
猫の駆けぬける昼下がり。
見知らぬような街の、閑散とした通りを
ハルは一人、どこへ向かうでもなく
歩いている。
引っ越したのが二ヶ月前。
自室で眠った回数、片手で数える程度。
床には、まだ中を開けてないダンボール箱が乱雑に置かれ、
どうせ数日も経たずに家を空けるのだと思うと、そのままの方が面倒がない。
昨日どこにいて、明日はどこにいるのか。
光の速さで一億年の彼方。
宇宙には、慣れてしまえば地球より過ごしやすい星はあるし、
人体に有害でない限り、口に入れられる物は何でも食べる。
中にはとても言い表せない味に遭遇することもあるが、
それが意外とくせになる、こともなくはない。
特にこだわりはないのだ。
胃袋が満たされるのなら。
それでも、不思議と。
この星の、この国の、どこの街にもあるような
味より量が売りのダイナーで。
ぼんやり昼メシを食いたい日もある。
ふいっと、三毛猫のしっぽが
赤いゼラニウムの鉢植えを曲がった。
それを目に留めたわけではないが、ハルは同じ角を曲がり、
そこにこぢんまりした店を見つけ、中に入った。
古びたカウンターと、並んだテーブルに、客の姿はない。
奥の席に落ち着いて、のっそりと注文を取りに来た店員を相手にビールを選ぶうち、
客が一人、入ってきた。
ハルは多くもないメニューからミートボールのスパゲッティを頼む。
店員はまたのっそりカウンターの方に歩いていき、
後から来た方の客に、愛想の良い笑みを向けた。
「コーヒー」
けれど、ハルが眺めていたのは。
南東の窓の向う。
曇りのない、果てのない青空。
一瞬、高度70000m、幻の銀翼が鼓膜を振るわせ
気付くと、誰かが自分の前にいる。
目に入ったのは、テーブルの端に軽くついた、男の手だ。
長い指と、形の良い爪。 静かな所作は優しげに見えるが、
ハルは首の後ろにちりりとするものを感じた。
その拳は、人を殴るのに慣れていた。
見覚えのないような男が一人、
少し遅れてやってきた友人のようにさりげなく、ハルの前に座った。
年齢はハルと同じか、少し上か。
黒髪に青のシャツ。ビールとコーヒーを運んできた店員に
礼を言う声は柔らかく、聞き心地が良い。
しかし、友人ではない。
この街にハルの知人はなく、彼がこの街にいることも、誰も知らない。
引っ越したことはバリーに話したかもしれないが、住所はどうだったろう。
店員がテーブルから離れる。
男は、整った顔立ちをしている。
黙ってハルを見つめる視線は、けれども、観察というものに限りなく近く、
数秒前まで存在したはずの柔和さは、どこかに消えていた。
その眼の、深く冷たい光を。
一度だけ見たことがある。
ハルは身体を前に乗り出すと、顔を顰めて相手を睨んだ。
「なんでここが分かった」
「お前が今どこに住み、どんな生活をしているかなど、
注意力の有る人間なら誰でも調べられるだろう。
マスクで顔を隠したところで何の意味も無い、Mr.ジョーダン」
淡々と述べる男は、その背に、夜闇を飛び舞う蝙蝠の翼を秘めている。
ゴッサムの深淵に潜むという怪物の、仮面の下の双眸は、
凍てつく星夜の結晶した、藍色。
ハルはグラスのビールを一気に飲み干し、
その瞳に、至極簡潔に答えた。
「ビッチ」
バットマンと顔を合わせたのは二度。
二度とも、悲嘆と瘴気が暗雲のように重く垂れこめる空の下。
地球を奴隷星に造り替えようとした異次元の悪神や、
精神支配により数多の星々を吸収してきた征服者との戦いで、
ハルが他の六人と協力したのは、なりゆきとしか言いようがない。
そう望んだのではなく、そうなるしかなかった。
バットマンの言葉があった、からではない。
カウンターのテレビでフットボールを見ていた店員は、
厨房から料理を受け取ると、二人組の客のいるテーブルへ向かう。
他に客はなく、のんびりしたものだ。
が、傍まで来ると、なんだか片方が難しい顔をしていたが、
無遠慮をよそおい、早々に空になったグラスの隣に皿を置く。
すると、黒髪の方が顔を上げ、チーズケーキを頼んだ。
物腰の柔らかな声だった。
にこりと了解してテーブルから離れた店員の後ろ姿と、
目の前にいる男を見比べ、ハルは訝しげに首を傾げた。
「チーズケーキ?」
「お前は嫌いか」
ゴッサムシティの悪名高いヴィジランテは、笑いもせず問い返す。
ハルは、しげしげとその顔を眺める。
相変わらず、何を考えているのか分からない。
ハルはフォークを取り上げ、ミートボールに突き刺した。
「食っても?」
涼やかな視線が、どうぞと頷いた。
店員が再びテーブルを訪れた時、二人は和やかに話をしていた。
フットボールの試合が気になるので、チーズケーキの皿を置くとすぐに戻った。
だから、知ることはないだろう。
二人は穏やかに、罵詈雑言の応酬をしていた。
そして、つい一ヶ月ほど前に地球を救ったヒーロー達の、ある種の協定について、
ああだこうだとついでのように。
テレビでは、インターセプトが成功し歓声が上がった。
「上手くいくと思ってんのか」
「いや」
「嫌味ったらしい蝙蝠が一匹に、規格外エイリアンと深海人、ガキまで混ざってる」
「皆お前より大局を見ることの出来る人間ばかりで、良かったな」
美味そうに昼飯を口に詰めこみつつ喋る男と、
何一つ口にしない男の会話は、不思議と滞ることなく。
ハルは、その1/3ほど聞き流しながら、
真正面にいる人間について考える。
あの真っ黒い仮面をしてないと、こざっぱりした普通の奴に見える。
だから、あれはやはり、頭がおかしいとも思う。
「で、他の連中は。YES?」
「効率の問題だ。
私達は全く違う事情を抱えた個人であり、思考も優先事項も異なる。
私には、ゴッサムで果たすべき義務がある。
あの街で異星人が武器密輸でも行わない限り、銀河の秩序維持については
その責任を担う者が遂行すれば良い。 私の関与するところではない」
「おまえ何でそんなエラソーなんだよ、いつも」
「お前の頭にも浸透するように話しているだけだ」
腹の立つところは、どこで会っても変わらない。
勝手に他人のことを全部調べ上げていたことも、
冷静ぶった顔して、自分の感情を表に出さないところも、気に食わない。
だいたい、バットマンのやり方はハルとはまるで違う。
「だが……」
けれど、あの日。
瓦礫の中で、己の仮面は狂気だと、言い捨てた。
その眼は、ハルだけが知っている。
「前回のような止むを得ない事態が生じた場合、
私は、あらゆる手段を以て事態が迅速に解決されることを望む。
そのために自身を惜しむことはないだろう」
その眼が、ハルに告げる。
言葉より、声よりも
奥底から放たれる
真冬の月輪のような光。
「我々が何か一つでも共有すべきものがあるとすれば、それだけだ」
ハルは黙って、口の中の物を咀嚼する。
窓の向こう側、真昼の街は眠ったまま
時間は静かに対流し、二人何も言わず
透明な容器に閉じ込める、世界。
ハルはスパゲッティを綺麗に平らげると、
腕を伸ばして、白い皿に乗っているチーズケーキをさらった。
つまり、それが。
デザートに買収されたことが、
ハルがジャスティスリーグに同意した、理由だ。
ダイナーを出た後、ハルの部屋でセックスしたことに、特に意味はない。
よろめいて、つまづいて、ダンボール箱を蹴倒して、
夜が来るまで床で縺れ合っていただけの、
単純な話。
うたたねからハルが目を覚ました時には、もう一人になっていた。
以来、ダークナイトが仮面の下に隠す素顔を、ハルは一度も見たことがないし、
汗に濡れた首筋に歯を立てたことも、勿論。
ただ、一・二ヶ月に一度でも、ジャスティスリーグが顔を合わせる時、
冷静沈着そのもののバットマンが、およそハルが聞き流す類のことを
淡々と語る様と、それを他の連中がもっともらしく聞いているのを眺めると、
“あいつ、あんな澄ました顔してるくせに頭のネジがガタガタにイカレてんだぜ”
と、大きな声で言ってみたくなる。
ハルは、話の分かる大人なので、そんなことはしない。
ほんの少し、うずうずしてくるだけだ。
****
カーテンを透かし薄く差し込む斜陽の角度を
眺めでもしているような、その鼻先に。
冷えたビールを突きつけると、床に座り込んだまま首を横に振る。
「何それ宗教? 水ならいいのかよ」
また首を振るが、ダイナーでも何も口にしていない。
むぅと不服げに立っているハルを、その目を覗くように顔を上げた
しっとり濡れた花色の瞳。
今日は腹いっぱいハルを食べたから、もういいのだと
戯言に慣れた唇で。
ハルは、何故だか急に、飢餓を覚えた。
満腹になるまで楽しんだはずが、喉の奥が鳴る。
手で首をさする。 何もない。
この吸血鬼、いったいどこに噛みついた。
ブルースが、微笑った。
何が面白いのか、見たことのないような顔で。
まったく、蝙蝠の気持ちなんて人間には分からない。
もどる→